自分に正直になることと日々の発見

ブログを書くこの感じ、なんだか久しぶりで新鮮。

書くことたくさんあるんです。でもね、まとまり良く見せたいという気持ちが強くなると投稿できないんです。

まとまりある文体を読者が望んでいるような気がして、書くのやめておこう、とキーボードを打つ手が止まるんです。

だけどそもそもこのブログも自分のために開いたものだから、そんなの気にしないでせっせと書けるだけ書いてやろうと、今再びブログに新たな気持ちで向き合っています。

 

最近の私は、「心の嵐に身を任せている」状態です。

しばらくここ一年半くらい沈黙が続いていたので、やっと来てくれたか~とちょっと嬉しかったり。

人間、安定を望んでは変化を望む。

どちらも同時進行。

そう望まなくても勝手にそうなってるのが人生だけど。

安定の中に変化があり、変化の中に安定がある。

 

さて心の嵐の真っただ中にいるのですが、すごくはっきりと「私はこれだ」というものが見えてきました。

見えてきたっていうと徐々に、というニュアンスが多少混じるので訂正。

「私はこれだ」というものがはっとわかりました。

言葉では表現しようのないもので、どちらかというと感覚的なものだとも気が付きました。

性格判断の必要性が一瞬にしてなくなりましたね。

今これを読んでいる人も共感できると思いますが、性格判断ってどれもなんだかしっくりこないんですよね。

なんとなくこれかなーと思っても何かが外れている。

しかし自分というものを知りたくて知りたくて、ネットや本で性格診断を続けたり、それを諦めて自分自身と問答を繰り返したり。

もちろん何も見つからなかったのですが、決してその工程も全く無駄ではなかったと思います。

それがあってこその今。

 

自分というものが分かったのと同時なのか前なのか後なのかよくわかりませんが、自分に正直になる感覚も分かるようになりました。

あえて説明すると、思考と感情を分けられるようになったのかな。

思考だと思っていた感情、感情だと思っていた思考。だいぶ上手に仕分け作業ができるようになりました。

人生楽になったなあ。

思考と感情がわかると、エゴなのか愛なのかもわかる。

今までどれくらいエゴによって生きていたかもわかる。

それを気づいた今、もっと愛を与えて生きよう。

でも私も人間。人間はエゴを持つから人間でもある。

エゴが無くなる期待は捨てて、そんなエゴを持っている自分にも愛を与えられることが幸せなんだと感じた。

 

今やっていることはエゴからなのか愛情からなのか。

 

これから年を重ねてもっとたくさんの発見をしていくんだろうな。

発見というのは後からわかること。

だからたとえ今現在つらい、苦しいと思っていても、将来の私が今の私を見て微笑んでいるのを想像しながら乗り越えています。

 

 

今日もいい日だったな。

 

ノエル

 

 

 

私は人間だということを気付かされる

こんにちは、先週メリーランドは極寒だったのに今週は真夏日みたいな日が続いています。

個人的には夏から秋、冬になる季節が大好きなのでもうちょっと寒くなってくれたほうがちょーっとばかり嬉しいんですが、逆らえない気候と季節の変化につくづく自然の存在を感ぜざるおえません。

なぜ自然のような本当に力強いものをふと忘れてしまうのか….。とても不思議だなあ。

 

私って人間だなあ

自然とわざわざ対比させるわけでもないのですが(むしろ人間は自然の一部と考えている)、なんだか最近、「私って本当に人間だなあ」と思うことが多いのです。

人間らしいことを突然するようになった訳ではないですよ。

ただ、毎日の生活を振り返ったり、自分の一瞬一瞬の気持ちや反応に敏感になっていくとそう感じることが増えるのかな、と。

 

人間らしさ

 

高校に入る前あたりまで、私は自分自身の身体でいることと心でいることをとても幸せに感じていました。

「ノエルとして生きていて本当に幸せだなあ。」と鏡に映る自分を見てそう心の中でよく呟いていました。

それが変化したのは、中学校3年生の後半から。

ただ単に社会に触れる機会が増えたことが原因です。

それとインターネット。

世の中の幾千幾万ともなる「価値観」と「基準」を取り込むようになったのです。

それから高校に入学してまたさらにそれが加速。

小さい時はそれほどいわゆる「社会」にあまり触れてこなかったためか、一度に大量の新しい情報が波のように押し寄せてきた感覚がしました。

自分自身の中で繰り広げていた世界がどんどん薄れていく寂しさと、周りに合わせなければいけないのかな?という疑心暗鬼を含んだモヤモヤ感。だって「わたし」がいなくなるのは嫌だったから。

人生で初めて自分はハーフだということを感じたのもこの時です。

それまでは国籍とか、外人っぽい顔だとか、何も気にせず自分自身をただの人間一人として考えていたから。

私に必要だったのは「ノエル」というラベルだけ。

 

嵐山 竹林

 

自己嫌悪

それから私は何をするにも「自己嫌悪」がまとわりつく癖がついていきました。

自己を嫌悪するのが必然になっていた。

例えばテストで98点をとった時、2点分を落とした自分が憎かった。

例えば友達の悪口を言ってしまったすぐ後にそんな自分を蔑んだ。

例えば思わず頭に膨らんでくる想像の世界を「いつまでたっても子供っぽい」と自然体の自分が現れては卑しみを含んだ眼差しで見た。

できること、やってきたことに視点を置く加点ではなく、できないことばかりに目がいく減点方式。

なんだろう、あの、気持ち悪い画像を見たくないのに見てしまう感覚。

 

 

…….あれ、でもこれはこれでいいんじゃないのかな?だってわたし人間じゃん。

 

自分は人間だということを発見

今まで人生で一度も「私は人間だからこう感じるんだ」とか思いませんでした。

人間として生きることに疑問は感じていたけれど、人間だからの感情は当たり前に存在していて、またそんな感情を妬み嫌悪していた。

 

自分が人間だということ(あ….ブログタイトルと矛盾してる…)を改めて認識するようになったのは最近のこと。

特にきっかけがあった訳ではなく、ただ何となくふっと舞い降りてきた感じでした。

バスが来なくてちょっとイライラしていた時、「ああ、人間だからイライラするんだ。イライラしてる私、人間っぽいなあ。おもしろいなあ。」と頭の中。

大事なものが壊れて悲しくなった時も、「わたし悲しんでるなあ。」と納得。

 

人間らしさ

 

なんだか、人間に生まれてきたことを毎日毎日気づかされて、悩みごとや大変なことの見方も変わったし、罪悪感ばかり感じていた自分に対しても「人間だなあ」、と可愛く思えたりします。

自分自身でいることが心地良く、ある種の安定感を感じています。

 

たとえこの私の言う人間らしさを感じなくなっても、それもまたなんと人間らしいこと。

 

年を重ねるにつれて増える発見

いくら学び、理解し続けているとはいえど、生きているからには毎日なんらかの発見で埋め尽くされている。

今日もまた、「これだけ理解しているし、自分のことも良くわかっている」と思っても、どうせ明日の自分が反証として今日の私を否定してくれるだろう。

 

そして、それもまたなんとも人間らしい生き様ではないであろうか。

 

 

ノエル

【共感覚?時間的空間について】デジタル時計が私の人生を破滅させようとしているのをやっと気付いた話

こんにちは、メリーランド大学での2週目が終わろうとしてうきうきなノエルです。

金曜日に学校行かなくてもいいように予定を組んだので、木曜日の今日がラスト。

月曜日が祝日だったので3日しか学校に行ってません。

今日はキャンパス内の、メディアを扱っている図書館(書物がないけれど図書館)での最初のシフト。

ほぼフロントデスクでの受付係なので課題とかができるんです。

さて、今記事のタイトルは少々大げさに感じられるかもしれませんが、私は本気です!

スマホとパソコンの普及によるデジタル時計の一般化が私の人生を生きづらくしていたのです。

どのように生きづらいのか、となぜそう思うのかという私なりの考えを綴っていきたいと思います。

 

時間は私の空間を一部占領している

時間を考えるとき、自動的に時間が見えます。

強いて言えば「共感覚」っていう名前が付いているらしい。

時間が見えるとはいっても目で見る視覚とは違う感覚です。

でも、頭の中の空想ともちょっと違っていて、見ている感覚と「感じている」感覚が混じったものです。

常に私の体の周りには、ある意味バーチャルリアリティーみたいな透き通っている時間が浮遊しています。

いつも一緒。

考える時間の種類によってみんなそれぞれ形と色があります。

Screen Shot 2017-09-07 at 8.15.37 PM

年(1年ではなく複数)を考えるときは、一年一年がうねうねしています。

年をとるにつれて視点が変わったり、年の面積も変化します。

年が一番ビビットな色をしているかも。油絵みたいに見える。

私にとって20歳という境目が、視点の境界線にもなっています。

20歳までは斜め上を見上げている感覚だったのに、今はもっと平行で前も後ろも見える状態。

これは日本で生まれ育った文化的背景の影響も大きいのかな、と思ったり。

共感覚 時間

月、と言っても1月から12月までのことです。

これが一番私の中で出てくるイメージかなあ…。

1月から12月までが三次元体にドーナツ状繋がっていて、私は透明(科学的な意味で)なドーナツの穴の中にいます。

(上の画像はなんとなくわかって欲しいために描いたものなので、色とか配置は正確ではありません。)

視点が変わることは後ほど説明しますが、あえて言うなら「0」の位置があります。

必ず戻る位置とでもいいましょうか、基本の位置です。

私の胸あたりからまっすぐ前に伸びた延長線上に、左側に1月、右側に12月を区切る境界線があります。

1月から反時計回りに2月、3月と順に続いていきます。

、とここで4月から7月くらいまでは体の後ろにあるから見えないじゃないかと思いますが、さっき言った「視点が変わる」の概念はここで出てきます。

リングの中から見える景色しか見えないわけではないのです。

「0」の位置はリングの中から見ているのですが、それとは別に、リング上からの景色も見えるようになっています。

今は9月なので、左に8月、右には10月が見えます。

リングは透視できるのでそのまた奥の7月と11月も薄く見えます。

まあ、自由自在に視点は操れるので見えない月はないんですけど、無意識的に現れるのは以上の景色です。

月それぞれに性格も色もついているのですが、それはここでは関係ないから割愛。

週(曜日)

こいつは帯状。左から右に流れる。

週カレンダーに似てる。

ただし、過去にも未来にもいつまでも続く。

上の「年」は遠い過去や未来を考えるときに出てくるのに対して、比較的近い過去や将来のことを考えるときにこいつは思い浮かんできます。

こーれーが、また違う。

今までのは比較的規則性があったのに対して、1日単位で考えるときはとっても不規則なんです。

頭の斜め上前あたりにぽやんと色とりどりに綿毛が集まったようなものがたくさんいるんです。

 

Screen Shot 2017-09-07 at 9.39.52 PM

 

予定が多ければ多いほど埋め尽くされる。

あと、体が物理的に圧迫感を感じるんです。

本当に存在しているかのように。

この性質が「デジタル時計に人生を破滅されそうになった」理由だと思っています。

ちなみにこの記事(本当は計画を立てるのが嫌いな私・予定に脅迫されていると感じる理由)にも当てはまる。

 

デジタル時計が苦手である真相

デジタル時計とアナログ時計の違い

デジタル時計は、数字しか現れません。

そこには空間も面積も、ほかの概念は「数字」であること以外何もありません。

12:00に予定があるとして、現在11:15。

引き算で45分をだして次の行動を考えます。

それに対してアナログ時計は、面積がある。

同じ時間で考えると、少なくとも私はあの円グラフの3/4の面積を見て、大体あとどれくらい時間があるかを感覚的に理解します。

スマホの普及によってほぼデジタル時計しか見なくなったときの変化

デジタル時計が時計として普及されるようになった頃から違和感はありました。

しかし気がついたのはほんと最近。

2年前大学に通い始めて、一人暮らしをするようになってからの話です。

スマホがあるのでそれで時間を常に確認する毎日。

ん?

なんか焦ってること多くなった?

でも、そのときは何が原因だったかは分からず…。

転機となったのは兄に腕時計をもらったこと。

もちろんアナログです。

最初は、ただデザインが好きなのと、大切な人からの贈り物だという理由でつけていました。

……………。

あれ、なんだか昔の時間感覚に戻ってる。

わたし、焦ってない。

そう。わかったんです原因が。

時間の感覚が、デジタル時計ではわからなく、正確に時間を読むことができなくなっていたのです。

間違えるのが怖いから余分に時間を余らせて結局無駄にしたり、逆に遅れてしまったり…。

ですが、アナログ時計だときっちり時間の感覚がわかるので無駄なく計画が立てられます。

「……………………………………!!!!!!!!!!!」

これだ!これだったのか!!!

気づいたときは宝くじに当たったかのような歓喜に包まれました。

だって、これから生きていく時間をこの腕時計だけで何万時間も有効に使える手段を得たんですよ?

いやあ、アナログ時計、大好き。

 

最後に

兄の贈り物からの思わぬ発見。

そしていかに自分の中で時間と空間が強く繋がっているかの気づき。

これを知ってからパソコンの右上の時計はもちろんアナログ設定に。

そしてつけない日もあった腕時計は毎日つけるように。

この発見のおかげで学校の課題や、仕事を無理なく時間内に終わらせられるようにもなりました。

わたしは、もし全ての時計がデジタル化されてもこれから一生アナログ時計とともに生きていくでしょう。

時間を目で、肌で感じる共感覚を持つ身としての新しい生き方をこれからも作り上げていきたいです。

本当は計画を立てるのが嫌いな私・予定に脅迫されていると感じる理由

こんにちは、ニューヨーク弾丸ひとり旅、行きのバスに揺られているノエルです。(その後空想にふけってしまったためニューヨークから帰宅したあとに書いています。)

 

ワシントンDCからは大体4時間ほどで着くそうなので、現時点からあと2時間半くらいですかね。

 

先に北海道旅行の最終回(【北海道1日目 支笏湖・白い恋人パーク・キロロリゾート】カメラ好きにはたまらない北海道の魅力満喫旅 /【北海道2日目 小樽・中富良野】カメラ好きにはたまらない北海道の魅力満喫旅 / 【北海道3日目 青い池・ファーム富田・ニングルテラス】カメラ好きにはたまらない北海道の魅力満喫旅)を書こうと思っていたのですが、なんだか頭に浮かんだことをつらつらと述べたい気分だったので思ったことを少し…….

 

と、気づけば今回のテーマにはちょうど良い書き出しになっているではないですか。

そう、つまり「予定を立てるのが嫌い」なことについて掘り下げたいと思います。

 

“成功するものは計画上手”

いわゆる、「常識」というものなのでしょうか?

思い返せば、小学校の時から夏休みや冬休みの計画を書いてわざわざ先生に提出したり、中学では定期テスト勉強の計画表を書いていちいち担任の許可をもらっていたり…

計画することに対して疑問を持たないように私は学んできたし、その概念とともに生きていたんだなあ、と。

それに拍車をかけるように、インターネットでも本屋さんでもよく「計画術」てきなものを見るもので、私も成功するにはスケジュール帳買って、事細かに何時から何時まで何処何処で何々をするというのを書かなきゃいけないのかなあってより強く思うようになっていました。

 

スケジュール帳を手にして、最初に予定を書き込むたびに「これで私の生活はより良くなる」と確信した……..

はずが、人生は何が起こるかわからないことばかり。

毎回毎回計画を立てては、いつもそれどうりにはやらない。

そして、計画通りにできない人間=できないやつ、の方程式を作ってしまって、もやもやする。

 

あぁ、いっそのこと計画しなくても幸せになれればいいのに…

 

予定の脅迫

こちらの方が今記事の本題。

私は「予定がある状態」に一種の不安感に襲われます。

たとえ、友達とのランチでも。

内容がどうとかの問題ではなく、予定が埋まっているのはつまりその時間に他にしたいことがあっても出来なくなってしまう、という考えが無意識に生まれるんです。たぶん。

うーん、なんなのかはっきり分かりません、正直。

 

常に(復唱:常に、)時間軸と時間地図が頭の中に浮かんでいる状態で、その時間的空間がまっさらでないと違和感を感じる、とでも言った方が一番ぴったりするのかもしれない。

その時その時にやりたいことをやるのが幸せなので。

 

あ、でもちょっと待ってください。

「生活(銀行行ったりバイトしたり…)や学校といったやらなければならないことをしたくない時はどうするのか?」

心の中で密かに質問してくれたあなた、お答えしましょう。

そういった「やらなきゃいかんこと」はルーティーン化しているので、時間空間には存在しないのです。

というより、「何曜日の何時に何をやる」というのが苦手なんです。

だから、「何かをやる」だけで「いつ」はあまり意識しないで生活しています。

時間が余っている時にやっちゃおう、といった感覚ですね。

 

なんだかんだ0か100かになってる

世の中はグレーゾーンばかり。

世の中の物事(政治とか金融とか何でも)を考える時は”0か100ではなく、いつもその間で動いている”というのを理解していると自負しておりますが、自分のことになると全く違いますね。

例えば、バイトでも程よくシフトを入れて勉学との両立を測る、ということが精神的になかなか出来ないです。

やるなら超詰め込む。

ちょっとくらいなら一切やりたくない。

 

今は、いかにその性格や習慣を変えようとするかより、自分はそういう人間だからそれに合わせた生活スタイルを心がけています。

0か100だからいけない、じゃなくてそれでできることを目一杯やろう。

だって、100の時の勢いといったらマッハGoGoGoにも負けません。

最近になって自分が持ってるものに合わせる、そういった感覚がだんだん掴めてきている気がします。

 

最後に

とっさの思いつきで書いた今回のブログ。

予定や計画に対しての違和感は「恐怖感」だというのは最近になって気づきました。

恐怖感でも、決して悪者扱いしないでこれからは仲良く共生していきたいですね。

 

思いを文字に書き直すとさらに思考を深めたり広げたりするので、これからも「思いつき」をどんどん拾って私なりの考察を述べたいと思います。

 

 

ノエル

悟りを開くのではなく重ねる私の人生

こんにちは。

なんだか楽しい時と元気が出ない時の波が若干(ほんと若干)多いノエルです。

今日書きたいのは「悟り」について。

悟りって使いようによってはスケールの意味合いが違ってくるので、ここで言いたい悟りというのは「人生の起点となるような新しい視点を持つことができるようになる経験 — ノエル辞典」とでも勝手に定義しちゃいます。

 

国語辞典での「悟り」も見てみる

 物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。察知。「―が早い」

 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。「―の境地に達する」

(goo 辞書)

どちらかというと、の仏教的な意味が近いですね。

 

自分の「悟り」経験を振り返るきっかけ

私の母は家で英語教室をしているのですがつい先日、母が単語を生徒に教えている時、

「”悟る”は英語で、”realize”」

と英訳した時にハッとしたのです。

あぁ、悟るってよく何かが ”開けた” 感覚で使っていたけれど、”解る” という意味だったなあ、と妙に納得してしまって、それから自分の中の悟りを考え始めました。

 

余談だけど、言語ってここが面白いよなあ。

非常に似ているような意味であっても、使う言語によってやはり微妙なニュアンスや文化的背景が違う。

そして、日本語以外の言語を学ぶことによって(比較対象ができるので)日本語の理解も深まる。

これだからもっといろんな言語を習得したいと、いてもたってもいられなくなる。

 

何度かあった「悟り」

今まではっきり「悟った」と記憶に鮮明に残っているのは20年間の人生で3回。

 

1回目は高校生の時。

中学はバスケの強豪校で毎日毎日バスケ漬け。

コーチも厳しい、チームメイトとは喧嘩、体も(心も)ぼろぼろで、とってもイライラしやすかった。

周りの人を傷つけることによって得ていたちっぽけな快感。

高校に入学して、全く新しい環境と人間たちの中に飛び込んだ時の衝撃は忘れない。

みんな器が大きく、とても優しく、お互い高め合うことが好きな人たちが多い中、自分がとてつもなく幼稚に思えた。そして悟った。

「私の人生、もっと優しさが必要だ。」

怒りや憎しみを感じるのが癖になっていたせいか、他人に当たることもあったがその悟りがなかったらいつ優しさを思い出しただろうか…。

 

2回目の悟りは大学1年目の終わり頃。

前回の気づきより何がどう分かったのかは当時はハッキリしていなかったが、視界の色がガラッと変わったのを覚えている。

今思えば、「自立すること」の感覚を覚えたのだ。

東京に一人で上京して、身の回りのことを全部自分出やりこなすことはもちろんだが、それより自分自身で人脈を広げていく工程が新しくて、そして快感だった。

 

そして、3回目はつい最近。

全て起こることは「自分のせいであり自分の責任であり自分次第である、いい時も悪い時も」ということを、心から理解した。

 

例えば、

歩いていたらいきなり雨が降ってきて大変な目にあった

みたいな時。

雨を降らせたのはさすがに私ではありませんが、雨をどう捉えるかは私次第です。

「雨は嫌うもの」というか考えを生きていくうちに刷り込められてしまい、雨が降ると自動的に嫌な気分になってしまいます。

でも今は、たとえそのあと大事なプレゼンテーションがあっても、ユーモアに濡れたことをジョークに使ってもいいし、もっと計画的な人は予備の服装を携帯していてもいいかもしれません。

私は雨自体を楽しむのが好きなので、肌に雫が当たる感覚や、雨音を絵に描き出すための材料にしちゃいます。

 

いきなり暴言を吐かれて嫌な気分にさせられた

という場合でもやはり自分のせいだし自分次第。

暴言を吐かれたって、それにネガティブな反応をするのは自分の判断です。

もしかしたら八つ当たりしやすい出で立ちだったかもしれないし。

「なんでわたし?!」と思わず、相手の不満も吸収するつもりで、そんな時は過ごします。

 

最近、大学で何を学びたいのか全く分からなく、学校を辞めたいと思うほどまでに憂鬱な気分に浸っていました。

専攻を迷っていた理由は、「世間に認められるためにいわゆる学問的なことをやらなければいけない」というものでしたが、実際ずっとやりたかったのは美術関係の専攻。

絵を描く勉強中心な大学生活を送りたい気持ちがずーっと根っこにあったのに「社会の目」「頭脳派」というものに固執していた。

社会のせい、と違うものに理由を見出していたが、それをしているのは自分のせい、そして悶々としているのも自分の責任。

このことを悟って以来、とても世界を見る目が変わりました。

「自己責任」といえば重たい気もするが、裏を返せば何事も自分次第なので好きな方向に持っていくこともたやすくなります。

 

これからは自分の好きなことを好きなだけ。

ふふふ、人生って良いもの、と感じられるようになってきた。

 

悟りを重ねることが私の人生

開くことによって重ねられる、という見方もあるが開いてしまってはわりかし目の前が明るいようなイメージで…あえて「重ねる」と表現したい、悟り。

悟たびに世界の色が変わり、重ね塗りすることでまた違った味が出る。

悟たびに「これ以上の悟りはないだろう」と感じるけれどもますますズドン、と重量級の悟りが舞い降りてくる(重量級だと舞い降りるより落下かしら…。)

いつ来るか分からない「悟り」だが、次が楽しみな反面、期待はしないでおきましょう。