もう2018年ですか 、それともまだ2018年ですか。

こんにちは、ノエルです。

2018年になりましたね。

私にしたら、「もう2018かよ」って感じです。

去年はとても激しい一年でした。

年の始まりは割とスローペースだったので「ああこんなもんかあ」と呑気にしていたんですけど、半年が過ぎた頃かな、6月から一気に変化の年となりましたわ。

一年通ったモントゴメリカレッジからメリーランド大学に編入したのが大きかったんでね。あと、専攻を本格的にアートにしたこと。

あそうそう、それとトラべロコを始めたのも大事な前進でしたね。

要するに、海外在住の日本人が「ロコ」として日本人を対象に観光や英語の手続きなどのサービスを提供する仕組みなのですが、これまで半年の間に6件くらい依頼があったのでなかなか良い調子に観光サポーターとしての道は開けたんじゃないかと思っています。

本当のところは毎週末やりたいところなんですけど、そんなに日本人いないし、トラべロコもまだまだ発達途中なのでそうはいきませんね。それだったら毎月の家賃が払えるのに….

お金儲け、そいうか小遣い儲けもままならない2017年だったけど、今年は本格的にビジネス始めよう。始められたら良いなじゃなくて始めるのだ。

雇われるのが本当に嫌いなので自分で始めるしかない。

お金は悪者じゃなくてやりたい事を実現してくれるお友達。

大学生を卒業=本格的にお金を稼ぐ、ではなく大学生のうちに経済的に独立する。

日本の、就職して安定した収入を得るという概念から一刻も早く抜け出して自分なりの金儲けの手段を得たい。

私が何よりお金を稼ぎたいのは、会いたい人にいつでも会える資金が欲しいから。

日本にいる家族、正反対の海岸にいる兄弟や親友に、今は会えないでいるのが嫌で仕方がない。

だから2018年は徐々に自分のビジネスに向けて力と時間を注ぐ年になる。

2017年はある意味準備期間みたいなものだったけれど、2018年は本格始動さ!

 

ノエル

自分に正直になることと日々の発見

ブログを書くこの感じ、なんだか久しぶりで新鮮。

書くことたくさんあるんです。でもね、まとまり良く見せたいという気持ちが強くなると投稿できないんです。

まとまりある文体を読者が望んでいるような気がして、書くのやめておこう、とキーボードを打つ手が止まるんです。

だけどそもそもこのブログも自分のために開いたものだから、そんなの気にしないでせっせと書けるだけ書いてやろうと、今再びブログに新たな気持ちで向き合っています。

 

最近の私は、「心の嵐に身を任せている」状態です。

しばらくここ一年半くらい沈黙が続いていたので、やっと来てくれたか~とちょっと嬉しかったり。

人間、安定を望んでは変化を望む。

どちらも同時進行。

そう望まなくても勝手にそうなってるのが人生だけど。

安定の中に変化があり、変化の中に安定がある。

 

さて心の嵐の真っただ中にいるのですが、すごくはっきりと「私はこれだ」というものが見えてきました。

見えてきたっていうと徐々に、というニュアンスが多少混じるので訂正。

「私はこれだ」というものがはっとわかりました。

言葉では表現しようのないもので、どちらかというと感覚的なものだとも気が付きました。

性格判断の必要性が一瞬にしてなくなりましたね。

今これを読んでいる人も共感できると思いますが、性格判断ってどれもなんだかしっくりこないんですよね。

なんとなくこれかなーと思っても何かが外れている。

しかし自分というものを知りたくて知りたくて、ネットや本で性格診断を続けたり、それを諦めて自分自身と問答を繰り返したり。

もちろん何も見つからなかったのですが、決してその工程も全く無駄ではなかったと思います。

それがあってこその今。

 

自分というものが分かったのと同時なのか前なのか後なのかよくわかりませんが、自分に正直になる感覚も分かるようになりました。

あえて説明すると、思考と感情を分けられるようになったのかな。

思考だと思っていた感情、感情だと思っていた思考。だいぶ上手に仕分け作業ができるようになりました。

人生楽になったなあ。

思考と感情がわかると、エゴなのか愛なのかもわかる。

今までどれくらいエゴによって生きていたかもわかる。

それを気づいた今、もっと愛を与えて生きよう。

でも私も人間。人間はエゴを持つから人間でもある。

エゴが無くなる期待は捨てて、そんなエゴを持っている自分にも愛を与えられることが幸せなんだと感じた。

 

今やっていることはエゴからなのか愛情からなのか。

 

これから年を重ねてもっとたくさんの発見をしていくんだろうな。

発見というのは後からわかること。

だからたとえ今現在つらい、苦しいと思っていても、将来の私が今の私を見て微笑んでいるのを想像しながら乗り越えています。

 

 

今日もいい日だったな。

 

ノエル

 

 

 

私は人間だということを気付かされる

こんにちは、先週メリーランドは極寒だったのに今週は真夏日みたいな日が続いています。

個人的には夏から秋、冬になる季節が大好きなのでもうちょっと寒くなってくれたほうがちょーっとばかり嬉しいんですが、逆らえない気候と季節の変化につくづく自然の存在を感ぜざるおえません。

なぜ自然のような本当に力強いものをふと忘れてしまうのか….。とても不思議だなあ。

 

私って人間だなあ

自然とわざわざ対比させるわけでもないのですが(むしろ人間は自然の一部と考えている)、なんだか最近、「私って本当に人間だなあ」と思うことが多いのです。

人間らしいことを突然するようになった訳ではないですよ。

ただ、毎日の生活を振り返ったり、自分の一瞬一瞬の気持ちや反応に敏感になっていくとそう感じることが増えるのかな、と。

 

人間らしさ

 

高校に入る前あたりまで、私は自分自身の身体でいることと心でいることをとても幸せに感じていました。

「ノエルとして生きていて本当に幸せだなあ。」と鏡に映る自分を見てそう心の中でよく呟いていました。

それが変化したのは、中学校3年生の後半から。

ただ単に社会に触れる機会が増えたことが原因です。

それとインターネット。

世の中の幾千幾万ともなる「価値観」と「基準」を取り込むようになったのです。

それから高校に入学してまたさらにそれが加速。

小さい時はそれほどいわゆる「社会」にあまり触れてこなかったためか、一度に大量の新しい情報が波のように押し寄せてきた感覚がしました。

自分自身の中で繰り広げていた世界がどんどん薄れていく寂しさと、周りに合わせなければいけないのかな?という疑心暗鬼を含んだモヤモヤ感。だって「わたし」がいなくなるのは嫌だったから。

人生で初めて自分はハーフだということを感じたのもこの時です。

それまでは国籍とか、外人っぽい顔だとか、何も気にせず自分自身をただの人間一人として考えていたから。

私に必要だったのは「ノエル」というラベルだけ。

 

嵐山 竹林

 

自己嫌悪

それから私は何をするにも「自己嫌悪」がまとわりつく癖がついていきました。

自己を嫌悪するのが必然になっていた。

例えばテストで98点をとった時、2点分を落とした自分が憎かった。

例えば友達の悪口を言ってしまったすぐ後にそんな自分を蔑んだ。

例えば思わず頭に膨らんでくる想像の世界を「いつまでたっても子供っぽい」と自然体の自分が現れては卑しみを含んだ眼差しで見た。

できること、やってきたことに視点を置く加点ではなく、できないことばかりに目がいく減点方式。

なんだろう、あの、気持ち悪い画像を見たくないのに見てしまう感覚。

 

 

…….あれ、でもこれはこれでいいんじゃないのかな?だってわたし人間じゃん。

 

自分は人間だということを発見

今まで人生で一度も「私は人間だからこう感じるんだ」とか思いませんでした。

人間として生きることに疑問は感じていたけれど、人間だからの感情は当たり前に存在していて、またそんな感情を妬み嫌悪していた。

 

自分が人間だということ(あ….ブログタイトルと矛盾してる…)を改めて認識するようになったのは最近のこと。

特にきっかけがあった訳ではなく、ただ何となくふっと舞い降りてきた感じでした。

バスが来なくてちょっとイライラしていた時、「ああ、人間だからイライラするんだ。イライラしてる私、人間っぽいなあ。おもしろいなあ。」と頭の中。

大事なものが壊れて悲しくなった時も、「わたし悲しんでるなあ。」と納得。

 

人間らしさ

 

なんだか、人間に生まれてきたことを毎日毎日気づかされて、悩みごとや大変なことの見方も変わったし、罪悪感ばかり感じていた自分に対しても「人間だなあ」、と可愛く思えたりします。

自分自身でいることが心地良く、ある種の安定感を感じています。

 

たとえこの私の言う人間らしさを感じなくなっても、それもまたなんと人間らしいこと。

 

年を重ねるにつれて増える発見

いくら学び、理解し続けているとはいえど、生きているからには毎日なんらかの発見で埋め尽くされている。

今日もまた、「これだけ理解しているし、自分のことも良くわかっている」と思っても、どうせ明日の自分が反証として今日の私を否定してくれるだろう。

 

そして、それもまたなんとも人間らしい生き様ではないであろうか。

 

 

ノエル

【共感覚?時間的空間について】デジタル時計が私の人生を破滅させようとしているのをやっと気付いた話

こんにちは、メリーランド大学での2週目が終わろうとしてうきうきなノエルです。

金曜日に学校行かなくてもいいように予定を組んだので、木曜日の今日がラスト。

月曜日が祝日だったので3日しか学校に行ってません。

今日はキャンパス内の、メディアを扱っている図書館(書物がないけれど図書館)での最初のシフト。

ほぼフロントデスクでの受付係なので課題とかができるんです。

さて、今記事のタイトルは少々大げさに感じられるかもしれませんが、私は本気です!

スマホとパソコンの普及によるデジタル時計の一般化が私の人生を生きづらくしていたのです。

どのように生きづらいのか、となぜそう思うのかという私なりの考えを綴っていきたいと思います。

 

時間は私の空間を一部占領している

時間を考えるとき、自動的に時間が見えます。

強いて言えば「共感覚」っていう名前が付いているらしい。

時間が見えるとはいっても目で見る視覚とは違う感覚です。

でも、頭の中の空想ともちょっと違っていて、見ている感覚と「感じている」感覚が混じったものです。

常に私の体の周りには、ある意味バーチャルリアリティーみたいな透き通っている時間が浮遊しています。

いつも一緒。

考える時間の種類によってみんなそれぞれ形と色があります。

Screen Shot 2017-09-07 at 8.15.37 PM

年(1年ではなく複数)を考えるときは、一年一年がうねうねしています。

年をとるにつれて視点が変わったり、年の面積も変化します。

年が一番ビビットな色をしているかも。油絵みたいに見える。

私にとって20歳という境目が、視点の境界線にもなっています。

20歳までは斜め上を見上げている感覚だったのに、今はもっと平行で前も後ろも見える状態。

これは日本で生まれ育った文化的背景の影響も大きいのかな、と思ったり。

共感覚 時間

月、と言っても1月から12月までのことです。

これが一番私の中で出てくるイメージかなあ…。

1月から12月までが三次元体にドーナツ状繋がっていて、私は透明(科学的な意味で)なドーナツの穴の中にいます。

(上の画像はなんとなくわかって欲しいために描いたものなので、色とか配置は正確ではありません。)

視点が変わることは後ほど説明しますが、あえて言うなら「0」の位置があります。

必ず戻る位置とでもいいましょうか、基本の位置です。

私の胸あたりからまっすぐ前に伸びた延長線上に、左側に1月、右側に12月を区切る境界線があります。

1月から反時計回りに2月、3月と順に続いていきます。

、とここで4月から7月くらいまでは体の後ろにあるから見えないじゃないかと思いますが、さっき言った「視点が変わる」の概念はここで出てきます。

リングの中から見える景色しか見えないわけではないのです。

「0」の位置はリングの中から見ているのですが、それとは別に、リング上からの景色も見えるようになっています。

今は9月なので、左に8月、右には10月が見えます。

リングは透視できるのでそのまた奥の7月と11月も薄く見えます。

まあ、自由自在に視点は操れるので見えない月はないんですけど、無意識的に現れるのは以上の景色です。

月それぞれに性格も色もついているのですが、それはここでは関係ないから割愛。

週(曜日)

こいつは帯状。左から右に流れる。

週カレンダーに似てる。

ただし、過去にも未来にもいつまでも続く。

上の「年」は遠い過去や未来を考えるときに出てくるのに対して、比較的近い過去や将来のことを考えるときにこいつは思い浮かんできます。

こーれーが、また違う。

今までのは比較的規則性があったのに対して、1日単位で考えるときはとっても不規則なんです。

頭の斜め上前あたりにぽやんと色とりどりに綿毛が集まったようなものがたくさんいるんです。

 

Screen Shot 2017-09-07 at 9.39.52 PM

 

予定が多ければ多いほど埋め尽くされる。

あと、体が物理的に圧迫感を感じるんです。

本当に存在しているかのように。

この性質が「デジタル時計に人生を破滅されそうになった」理由だと思っています。

ちなみにこの記事(本当は計画を立てるのが嫌いな私・予定に脅迫されていると感じる理由)にも当てはまる。

 

デジタル時計が苦手である真相

デジタル時計とアナログ時計の違い

デジタル時計は、数字しか現れません。

そこには空間も面積も、ほかの概念は「数字」であること以外何もありません。

12:00に予定があるとして、現在11:15。

引き算で45分をだして次の行動を考えます。

それに対してアナログ時計は、面積がある。

同じ時間で考えると、少なくとも私はあの円グラフの3/4の面積を見て、大体あとどれくらい時間があるかを感覚的に理解します。

スマホの普及によってほぼデジタル時計しか見なくなったときの変化

デジタル時計が時計として普及されるようになった頃から違和感はありました。

しかし気がついたのはほんと最近。

2年前大学に通い始めて、一人暮らしをするようになってからの話です。

スマホがあるのでそれで時間を常に確認する毎日。

ん?

なんか焦ってること多くなった?

でも、そのときは何が原因だったかは分からず…。

転機となったのは兄に腕時計をもらったこと。

もちろんアナログです。

最初は、ただデザインが好きなのと、大切な人からの贈り物だという理由でつけていました。

……………。

あれ、なんだか昔の時間感覚に戻ってる。

わたし、焦ってない。

そう。わかったんです原因が。

時間の感覚が、デジタル時計ではわからなく、正確に時間を読むことができなくなっていたのです。

間違えるのが怖いから余分に時間を余らせて結局無駄にしたり、逆に遅れてしまったり…。

ですが、アナログ時計だときっちり時間の感覚がわかるので無駄なく計画が立てられます。

「……………………………………!!!!!!!!!!!」

これだ!これだったのか!!!

気づいたときは宝くじに当たったかのような歓喜に包まれました。

だって、これから生きていく時間をこの腕時計だけで何万時間も有効に使える手段を得たんですよ?

いやあ、アナログ時計、大好き。

 

最後に

兄の贈り物からの思わぬ発見。

そしていかに自分の中で時間と空間が強く繋がっているかの気づき。

これを知ってからパソコンの右上の時計はもちろんアナログ設定に。

そしてつけない日もあった腕時計は毎日つけるように。

この発見のおかげで学校の課題や、仕事を無理なく時間内に終わらせられるようにもなりました。

わたしは、もし全ての時計がデジタル化されてもこれから一生アナログ時計とともに生きていくでしょう。

時間を目で、肌で感じる共感覚を持つ身としての新しい生き方をこれからも作り上げていきたいです。

【アメリカ留学】我が身のキャパを知り、妥協を認めたメリーランド大学での新学期

今日は、本日は木曜日、今週最後の講義を控えている間サラダを食べながらブログを綴ろうとしているノエルです。

そう、木曜日。

編入先のメリーランド大学での初週があと数時間で終わりそうなところです。

ふう。

というのが正直な感想。

「ふう。」の中にも様々な意味があります。

今回のブログはなんでそう思っているのかをほぼ私の感想文として書きつつ、少しアメリカの大学のシステムについても説明したいと思います。

 

全校生徒37,000人のマンモス校、メリーランド大学カレッジパーク

37000人とは言いつつ、実際どれくらいな規模なのかは書いている本人も正直わかりません。

とりあえずデカイ。

最初の「ふう。」は規模の大きさに慣れる工程に自分を意図的に入れていることについてのものなのかなと。

アメリカ 大学 校舎

人数の多さは正直思ってたほど気にしていない自分がいます。

全校生徒は多いけど、みんな取ってる講義とかは全然違うので、よほど大きな一大イベントがない限りキャンパスが人で埋め尽くされることはありません。

しかし、朝の交通はかなり重い!

キャンパスの入り口から行きたい建物まで車だと20分かかりました、日中は1分で行けるところを…。

それにも繋がることだけれど、大学の規模が大きく思ったより大変だなと感じたのが実際のキャンパスの広さ。

州立大学の宿命かしら。

建物から建物までがとおぉーい。

テクテクテクテク…….

テクテクテクテク……スタタタタタタタ…….あ、間に合わない…….5分遅れてもセーフだよね…..。

ということが新学期始まって早々起きてしまいました。

でも、キャンパスの広さも徐々に慣れるのですごくストレスな訳ではありません。

何事も慣れですね。

…..と言いたいところだが…。

 

広いキャンパスに多岐にわたる講義

広く、広く、とにかく広く……….

と、同じ広いでも今回は勉強の分野について。

どの学部で何を学んでも全ては関係し合っているため、私はどれもある一定は理解してこなさなければいけない、と思う傾向にありました。

今学期もそう。

私は専攻を「制作芸術」に決めていてもなお5つ中2つのアートの単位以外は、エンジニアリング、テクノロジーとジャーナリズム、それから経済学の単位を選んでいました。

どの単位を取るかは2ヶ月前に決めていたため、当時私が捨て切れなかった「理系科目」を含めずにはいられなかったのです。

アメリカ 大学 校舎

アメリカ 大学 校舎

アメリカ 大学 校舎

そして新しい学期が始まりました。

学部が異なる講義ばかり取っていたため、もちろん全て建物が違います。

そしてここで問題になるひろーいキャンパス。

ジャーナリズムの講義が終わってから15分の間に次の経済学の講義に辿り着かなければなりません。

建物同士が1キロほど離れているためダッシュ。ぴったしには着きたくないので。

結果間に合いましたが、心の余裕はあまりないです。

そして、経済学の講義の後に待っていたのがエンジニアリングの講義。

この講義も無事終わりましたが、その日の終わりには体力的にはもちろん疲れていたのですが、心もなぜかもやもやもや….。

その日はもやもやの正体が分からなかったけれど、次の日には正体を暴くことができました。

取り敢えず、「ふう。」

アメリカ 大学 校舎

アメリカ 大学 校舎

アメリカ 大学 校舎

アメリカ 大学 校舎

 

勉強面の妥協点を知る

「学校」というのと、「新しい環境」が特に嫌いでもないわたし。

しかし新しい大学での生活を好きになれない、というよりか日に日に嫌いになっていく感覚がしていました。

通学かな?キャンパスかな?それともなにがこんなにもストレスなのだろうか?と考えるが、なかなかピンとこない。

そうしたらふと、「講義を変えてみよう」という思いつきが舞い降りたので、2つのアートと、とても気に入ったジャーナリズムの講義は残して、後の経済学とエンジニアリングの講義をアートセオリーとアメリカに残る白人優越主義についての講義を取りました。

 

とここでアメリカの大学の仕組みについてちょっと豆知識を。

私が単位を変えたのは「アド&ドロップ(add & drop: 単位を加えたり落としたりすること)」が許されているからです。

学期始めの2週間(学校によって違うかもしれないのでご注意を〜)は、成績に影響することなく好き勝手に取りたいクラスを選べます。

完璧なスケジュールだと思っていても実際キャンパスに行って受けてみて、授業の内容や教授を見て感じないと分からないのです。

そして、この2週間が終わってしまうと次は「ウィズドロー」が待っています。

中間試験のすぐ後くらい。

「あ、やべ。このままじゃ単位落としてしまう。」と思った人が「ウィズドロー」します。

仮にこの人を斎藤さんとしましょう。

斎藤さんは中間試験の結果や、それまでの成績を見て救いようがないと悟りました。

「F(フェール、つまり単位を落としちゃった。)」が最終的についてしまえば、それを含めて成績が計算されるので、全体のGPAにも影響してしまいます。

ところがどっこい、斎藤さんはあの「ウィズドロー」という必殺技を使ったので成績書には「W」が付きましたが、全体の成績を下げることを阻止することができたのです。

※ここで気をつけて欲しいのが「W」の場合単位はもらえません。全体の成績に影響しないよ、ということです。なので無理と思ったら早めにドロップしておいたほうがいいですよ。

と、いうのが「アドドロップ」と「ウィズドロー」の簡単な説明でしたとさ。

 

ここからは斎藤さんから大西さん(わたし)のお話を。

クラスを2つ変えたところでしたっけ。

経済学とエンジニアリングをドロップしたんです。そしてアートセオリーとアメリカの人種問題についてのクラスをアドしました。

そうしたら面白いことに、変えた瞬間に気持ちがとてもすっきりしました。

そして、その瞬間に学校に行くことも楽しみになっていました。

これでアート系の講義が3つでとってもワクワク。

この時、「ああ、学ぶ分野が違っていたことで頭の中がマルチタスク状態になっていたんだな」と腑に落ちた。

分野が四方八方に広がりすぎて、1日を終える頃には頭の中が「ふう。」となっていたのか。

アメリカ 大学 校舎

アメリカ 大学 校舎

アメリカ 大学 校舎

しかも今の私は「アート」という一番没頭したいものがあるのに他の講義にもっと時間と努力を費やしていて、自分で自分のやりたいことをできないようにしていた。

「全部できるように」

じゃなくて、

「少ないものを極める」

現在の私はこうする時なんだと心と体で感じた瞬間でした。

狭く集中することは決して何かを失っているのではなく、(今現時点で)むしろ私を成長させるものだと人生で初めてと言ってもいいくらい知りました。

 

終わりに

高校がどちらかというとリベラルアーツ寄り、そして大学生活の前半2年間は一般教養科目を多く取らなければいけないことから、「絞る」ということがあまり頭になかった私。

今回メリーランド大学という決して楽に単位を取れない大学に通い始めて、初めて「必要なものを犠牲にしない限界」を知ったのと、それを認めることをできる自分がいる、という収穫を得ることができました。

アメリカ 大学 校舎

このように発見することができたのは、全ては自分のためにやっていることだとわかったからだと思います。

今まで何かと頭の中で空想理論劇を繰り広げていた私にとって、この考えが身についたのはとってもうれしいこと!

さあ次は何が待っているのかなあ。

ノエル